【世界史論述】周・秦・漢の政治史
今回の問題はコチラ。
周・秦・漢の統治体制について、その相違点、および、制度が変化した理由もふまえて説明せよ。(200文字程度)
今回は政治史の問題です。
「3つのC」のうち、次のものをつかって考えます。
Causal relationship(因果関係)
Contrast(対比)
さて、「周・秦・漢の統治体制」と聞いて、パッと頭に浮かんでほしいのは、
封建制、郡県制、郡国制
というワードです。
しかし、ワードだけ知っていても、「相違点」に触れねばならないので、キチンと内容も理解しておく必要があります。
そこで、各制度の特徴を確認しておきましょう。
【封建制】封土(領地)を与えて諸侯とし、代々その土地を領有させた
【郡県制】全国を郡と県に分けて、直接中央の官吏が統治した
【郡国制】全国を直轄地と家臣の国に分けて統治した
まず「対比」から考えます。
統治の方法は、それぞれ
封建制→他人任せ(=ユルい)
郡県制→直接(=キビシイ)
郡国制→お任せ+直接(=いいとこ取り)
となります。
上をみると、「郡国制」=「封建制」+「郡県制」という関係であることがわかります。
それでは、「因果関係」はどうでしょう。
封建制は諸侯に統治を任せていたので、徐々に諸侯が強大化し、周に刃向かう結果となってしまいました。
それを反省した秦では、ユルイ統治を変えて、郡県制でキビシイ統治をしました。
すると今度は逆に厳しすぎて人々の反感を買い、秦滅亡の一因となってしまいます。
そこで、漢では周・秦の反省をふまえ、両者のいいとこ取りをした郡国制が施行されたのです。(最終的には郡県制とかわらないものとなりましたが。)
解答例は以下のようになります。
周では周王の一族や功臣に封土を与えて諸侯とし、代々その土地を所有させる封建制が行われた。しかし諸侯の強大化を招き、周の弱体化を招く結果となった。そこで秦では、全国郡と県に分けて直接中央の官吏に統治させる郡県制が行われた。しかしかえってその急進的な中央集権化が人民の反感を買い、秦滅亡の一因となってしまった。そこで漢では封建制と郡県制を併用した郡国制を取ったが、のちに実質的には郡県制と変わらない中央集権体制を成立させた。
今回はここまで。