【世界史論述】慶應過去問#01
今回の問題はコチラ。
今回は「3つのC」のうち、以下のものを使います。
Causal relationship(因果関係)
「宋代の科挙の改革」と聞いたら、パッと「殿試」を思いつきたいところ。
細かい知識ですが、宋代に、
州試→省試→殿試
という流れが確立しました。
殿試はいわば最終試験。皇帝が直々に試験管を務めるものでした。
それでは、この科挙改革の「意義」はなんでしょうか。
ある教科書を見ると、
「君主と官僚のあいだの直接のつながりが強調された」
「科挙出身の官僚が皇帝の手足として政治をになう体制がととのった」
と書かれています。
つまり、皇帝の権力が増大し、皇帝独裁体制が確立したのです。
解答例は以下のようになります。
科挙が州試・省試・殿試の三段階に再編され、最終試験の殿試には皇帝自らが臨席した。高級官僚となる合格者は皇帝の門下生として忠誠を誓い、皇帝独裁が確立された。
今回はここまで。
【世界史論述】名古屋大過去問#02
今回の問題はコチラ。
「晋室の南渡」は、どのような原因で起こり、どのような事態をもたらしたかを100字程度で述べなさい。
今回は「3つのC」のうち、次のものを使います。
Causal relationship(因果関係)
「晋室の南渡」とは、西晋が滅び、皇族が江南へ移り東晋を建てたことです。
それでは、何が「原因」で西晋は滅びたのでしょうか。
「永嘉の乱」です。
少し細かいワードですが、押さえておきたいところです。
匈奴によって勃発した「永嘉の乱」により、西晋は首都の洛陽を占領され、滅亡を余儀なくされました。
それでは、東晋への遷都は、どんな「結果」をもたらしたのしょうか。
江南の発達
です。
漢人が江南に移住し、長江流域の開発が進んで経済的に発展しました。
また、江南は戦乱が少なかったので、優雅な貴族文化が発達しました。梁の昭明太子が『文選』をつくるなど、いわゆる「六朝文化」が花開きました。
解答例は以下のようになります。
今回はここまで。
【世界史論述】周・秦・漢の政治史
今回の問題はコチラ。
周・秦・漢の統治体制について、その相違点、および、制度が変化した理由もふまえて説明せよ。(200文字程度)
今回は政治史の問題です。
「3つのC」のうち、次のものをつかって考えます。
Causal relationship(因果関係)
Contrast(対比)
さて、「周・秦・漢の統治体制」と聞いて、パッと頭に浮かんでほしいのは、
封建制、郡県制、郡国制
というワードです。
しかし、ワードだけ知っていても、「相違点」に触れねばならないので、キチンと内容も理解しておく必要があります。
そこで、各制度の特徴を確認しておきましょう。
【封建制】封土(領地)を与えて諸侯とし、代々その土地を領有させた
【郡県制】全国を郡と県に分けて、直接中央の官吏が統治した
【郡国制】全国を直轄地と家臣の国に分けて統治した
まず「対比」から考えます。
統治の方法は、それぞれ
封建制→他人任せ(=ユルい)
郡県制→直接(=キビシイ)
郡国制→お任せ+直接(=いいとこ取り)
となります。
上をみると、「郡国制」=「封建制」+「郡県制」という関係であることがわかります。
それでは、「因果関係」はどうでしょう。
封建制は諸侯に統治を任せていたので、徐々に諸侯が強大化し、周に刃向かう結果となってしまいました。
それを反省した秦では、ユルイ統治を変えて、郡県制でキビシイ統治をしました。
すると今度は逆に厳しすぎて人々の反感を買い、秦滅亡の一因となってしまいます。
そこで、漢では周・秦の反省をふまえ、両者のいいとこ取りをした郡国制が施行されたのです。(最終的には郡県制とかわらないものとなりましたが。)
解答例は以下のようになります。
周では周王の一族や功臣に封土を与えて諸侯とし、代々その土地を所有させる封建制が行われた。しかし諸侯の強大化を招き、周の弱体化を招く結果となった。そこで秦では、全国郡と県に分けて直接中央の官吏に統治させる郡県制が行われた。しかしかえってその急進的な中央集権化が人民の反感を買い、秦滅亡の一因となってしまった。そこで漢では封建制と郡県制を併用した郡国制を取ったが、のちに実質的には郡県制と変わらない中央集権体制を成立させた。
今回はここまで。
【タテの世界史】中国ってどんな地域?
さて、中国の勉強を始める前に、ザックリと中国の特徴を押さえておきましょう。
中国のキーワードとポイントは、以下になります。
「中華思想」とは、「中国が世界の中心だ」と考えることです。中国が世界の中心(=中華)で、それ以外の国は野蛮族(=夷狄)の国である、と考えたのです。
この考えから、「朝貢貿易」(中国の家臣となって、中国の皇帝に貿易を認めてもらう)という概念が生まれてくるのです。(この考えを「華夷思想」とも言います。)
ポイントについての解説です。
❶について。
中国という広大な地域を治めていたのは、宗教でも、教皇でもなく、「皇帝」です。要は、有能な皇帝ならば国が安定し、無能な皇帝なら国が崩壊するのです。
このように、国の明暗と皇帝の能力が一身一体だったのです。
❷について。
これは❸とも関係しますが、歴代王朝を見ると、見事に統一と分裂を繰り返しているのがわかります。
❸について。
その広大な土地ゆえに、中国はあらゆる異民族に苦しめられます。
中国にとっては、ヨーロッパの国々も「異民族」だったのです。(マカートニーやアマーストへの「三跪九頭叩の礼」は、「中華思想」の現れだったのです。)
さて、中国の特徴がわかったところで、早速練習問題に入っていきましょう。
【世界史論述】唐の運命を左右した「3点セット」
今回考える問題はコチラ。
空前の繁栄を実現した唐。
一体なぜ滅亡したのでしょうか。
今回は
Causal relationship(因果関係)
Change(変化)
を問う問題です。
滅亡の直接の原因は、「黄巣の乱」が起こり、朱全忠に国を乗っ取られたことです。
つまり、「王朝の死亡フラグ」のうち、「反乱が起こる」のパターンですね。
3c-history.hateblo.jp
しかし、その前に、唐が衰退する「キッカケ」があったのです。
ズバリ、「均田制・租庸調制・府兵制」の「3点セット」の崩壊です。
❶「均田制」とは、国の土地を民衆に等しく与え、死後返納させるもの
❷「租庸調制」は、均田農民に等しく税を課すもの
❸「府兵制」は、均田農民の戸籍を利用して徴兵するもの
つまり、唐の繁栄は「農民」をコントロールできることが大前提だったのです。
ところが、以下の流れで「3点セット」が崩壊します。
唐代末期の人口増加や商業発達
↓
農民に貧富の差が開く
↓
農民が没落し逃亡
↓
農民から徴税できなくなる(均田制の崩壊)
&
民衆を徴兵できなくなる(府兵制の崩壊)
↓
税制を変更(両税法の採用)
&
兵制を変更(募兵制の採用)
つまり、「取れる人からだけ税を取り、なりたい人だけ兵隊になる」
という制度になったのです。
実際は「イヤイヤ」兵になる人がおおく、兵力が低下します。
これが節度使の強大化や反乱を招き、唐滅亡につながっていくのです。
解答例は以下のようになります。
今回はここまで。
【世界史論述】ウォールマリアを越える「進撃の異民族」
今回の問題はコチラ。
中国はこれまで異民族による侵略と征服を何度も受けてきた。
4世紀から17世紀までの北方民族による王朝の歴史について、北方民族による王朝が中国に与えた影響をふまえて説明せよ。(300字程度)
次のように考えていきます。
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